あれから30年。
2015年 08月 12日
520人もの人がお亡くなりになった日航機墜落事故。
あれから30年が経ちました。
30年前のあの夜。
ニュース速報で見たカタカナの名前に、
ぞっとして、、、。
みんなで、ただただ祈っていたあの夜。
奇跡の4人が救出された時には、
きっとまだあそこで生きているに違いない、
みんなで希望を抱いて、、、。
家族ぐるみで親しくさせて頂いていたお姉ちゃん。
海外留学から久し振りに日本に帰国し、
あの飛行機に乗られたのでした。
キャンセルが出て一便早い時間のチケットが取れたから、と。
少しでも早く家族に会いたいから、と。
みんな、助かると信じてライフジャケットを着ていたのに、、、。
旋回し続けた30分以上もの間、どれほどの恐怖だったのかと。
あの日。
お別れの日も、
暑い暑い日でした。
お葬式には、それは多くの人が参列して、、、。
優しくて気が利いて勉強も良く出来る人で。
これからの輝く未来があった人で。
どれほど、悔しかったことでしょうか。
でも。
あの時から止まったまま、
家族の方達の生活はガラッと変わってしまって。
当時、芦屋大丸からは黒のストッキングが売り切れたと聞きました。
○○さんの社長さんは、乗り遅れて新幹線に飛び乗っていて助かった、
良かった良かった、
そう聞くと、胸の奥がきゅっと締め付けられるような思いがしたものです。
腕時計も動いていて。
外国からのお土産の陶器の可愛い置物も割れず。
奇跡的に助かった方のあの日の手記を読むと、
まだ、生きていた人が他に何人かはいた、と。
どうしてもっと早く助けに行って貰えなかったのか、、、。
米軍からの支援要請を受けていたら、ひょっとして。
何年経ってもそう思ってしまう日です。
あの場所では仕方がない、そう分かっていても。
圧力隔壁の修理ミス。
でも、ボーイング社の修理担当が日本に来てくれない、
修理担当の名前は公表出来ない、となったあの時にも。
こんな大惨事だというのに協力しないなんて、
強く言えないなん日本はこれだから、
そう思うと悔しくて仕方がありませんでした。
多くの人が犠牲になった事故なのに、不起訴とは、、、。
幼い私を可愛がってくれた人でした。
今も優しい声と笑顔しか思い浮かびません。
何年経とうとも、忘れずにいますから。
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