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昭和時代における香淳皇后の御活動について

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このタイトル、宮内庁HPに書いてあるものです。

週刊現代は見出しだけが良かったんですね。




皇后は祭祀も公務もしなくてよい、という論調になって来ていますよね。
皇室をどんどん破壊しようとしているとしか・・・。

小林氏は、皇后陛下だけでなく、
歴代の皇后陛下に対して、失礼な事を言ってます。

週刊現代 
小林よしのり氏

皇后という前例にこだわって雅子妃を評価すべきではない。
「天皇と皇后、皇太子と皇太子妃は二人揃って公務につくべきと
一般国民は思い込んでいるが、それは大間違いです。
両陛下が揃って公務をなされるというのは、皇室の伝統ではなく
美智子皇后が始められた、いわば『平成流』です。美智子皇后が
特殊なのであり、雅子妃はそれを基準にする必要はありません。」


こちらが宮内庁の説明です。
↓以下参考のため引用------------------------------
昭和時代における香淳皇后の御活動について
http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taio/taio-h21-1204.html
平成21年12月4日
最近,一部の雑誌の皇室に関連する記事の中に,両陛下が揃って御公務をなさることは昭和時代からの伝統ではなく,皇后陛下の御意思で天皇陛下と御一緒に御公務をされているものであるという趣旨の記述が散見されますが,これは,皇后陛下の御行動に対する誤認であると共に,昭和天皇のお側で数多くの公的行事に御出席になった香淳皇后に対し,極めて失礼なことですので,この際,宮内庁として,事実関係を説明することにしました。
まず,現在の両陛下が,お揃いで御公務をなさることは,平成になってからの独自のなさり方ではなく,昭和の時代のものを受け継ぎ,これを基盤にして新しい時代の要請に合わせて発展させてこられたものであり,そのことは,現行の憲法のもとで,昭和天皇と香淳皇后がなさっていたことを調べれば分かる筈のことです。

例えば,香淳皇后が60歳になられた昭和38年につき,同年の昭和天皇・香淳皇后の行幸啓を,仮に同年前半のお出ましに限って記してみても,年初以来,中央区久松小学校創立90周年記念式,エジプト美術五千年展,桜友会・常磐会主催古典舞踏鑑賞会,五島美術館御視察,第五回東京国際見本市,カンボジア王国秘宝展,赤十字百周年記念大会,五月場所大相撲,世界の貝類展,植樹行事ならびに地方事情御視察(宮城県,青森県),タイ国王・王妃両陛下国賓接遇などにお二方お揃いでお出ましになっており,この間,昭和天皇お一方でお出かけになられたのは,国会開会式,学士院授賞式及び芸術院授賞式の計3回のみです。なお,同年の後半に,山口県で開催された第18回秋季国民体育大会にも,勿論お二方でお出ましになりました。  

また,香淳皇后が70歳になられた昭和48年の前半についても,お二方で,静岡県水産試験場御視察,植樹祭併せて地方事情御視察(宮崎県),菊栄親睦会(於:新浜鴨場),世界の貝類展,世界に誇るブラジル展,園遊会,箱根樹木園等御視察,多摩陵及び多摩東陵,NHK放送センターなどにお出かけになられ,この間,昭和天皇お一方でお出かけになられたのは,国会開会式,学士院授賞式及び芸術院授賞式の計3回のみです。  

なお,この学士院,芸術院授賞式へのお出ましですが,平成に入って暫くした頃,当時の学士院院長から学問の催しには是非両陛下のお出ましをお願いしたいとの申し出が宮内庁に寄せられ,芸術院もこれに続き,当時の宮内庁長官及び侍従長の判断により皇后陛下にもお出ましを願うことになったものです。国会の開会式は,現在も天皇陛下お一方で御臨席になっています。  

香淳皇后のお出ましが少なくなったのは,74歳におなりの昭和52年の夏,那須御用邸で腰椎を骨折されて以降のことで,この時以来,お二方で諸行事にお出かけになることはほとんどなくなり,例えば,昭和55年について,その年の前半について記しますと,お揃いのお出ましは,植樹祭併せて伊勢神宮御参拝及び地方事情御視察のため三重県に行幸啓になった一回のみで,年初以来のその他の行事,具体的には,会計検査院創立百年記念式典,パナマ国大統領御夫妻の国賓接遇,スウェーデン国王・王妃両陛下の国賓接遇,園遊会,大相撲のように従来であれば御一緒であった筈の諸行事に,昭和天皇がお一方でお出ましになっています。つまり,冒頭で述べた「両陛下が揃って公務をなさることは,昭和時代からの伝統ではなく」云々は,この時期以降のみについてのことで,戦後から昭和30年代,40年代,50年代初期という時代が全く視野から落ちています。  

皇居内での拝謁についても,諸行事は勿論のこと,戦後次第に増えていった各種の拝謁についても香淳皇后は願い出のあったものは,ほぼ全てに御臨席になっており,その都度,昭和天皇に引き続いて,おことばも賜っております。また,勤労奉仕の人々に会われる際も同様です。皇居での拝謁は,関係省庁からの願い出によるものがほとんどで,昭和の頃と同じく平成に入ってからも,時代の要請で新しく加わるものが多々ありました。職域も増え,また,各職域での女性の参加者は近年著しく増えているので,それに伴い,両陛下お揃いでのお出ましへの願い出も,自然に増えています。一例が全国校長会で,女性の校長が極めて稀であった昭和の時代には願い出も昭和天皇お一方でしたが,女性校長の数が増えるに従って,願い出も両陛下となりました。また,平成に入ってから加わった国際緊急援助隊や国際平和協力隊などの拝謁も,当初は天皇陛下お一方でしたが,やがて女性隊員も増え,皇后陛下のお出ましも求められるようになり,前者については平成16年から,後者については平成18年から,皇后陛下もお出ましになっています。どちらの場合も,関係省庁ならびに宮内庁の検討を経て決定されたもので,皇后陛下がなさりたいか,なさりたくないかによって決定されるという性格のものではありません。ただ,皇后陛下が天皇陛下の御行事への御同席を求められれば,ほぼ全てこれをお受け入れになるのは,求めには出来る限り応じなければというお気持ちは勿論のこと,それにより少しでも陛下のお疲れの総量をお量りになれるようでありたいとのお気持ちをお持ちのようです。  
なお,宮中祭祀についても,香淳皇后が御熱心でいらしたことは,よく知られています。平成に入り,皇后陛下は香淳皇后がなさっていた祭祀を全てそのままに受け継がれました。お減らしになったものはありませんが,お足しになったものも一つもありません。  

以上のように,昭和の時代も今と変わらず,昭和天皇と香淳皇后は多くの場合お揃いでお出ましでした。  

それにもかかわらず冒頭に述べたような誤解が生ずるのは,昭和天皇が,戦争直後の国内御巡幸のほぼ全てをお一方でなさったことと(最終回の北海道御巡幸はお二方でしたが,香淳皇后がお風邪を召され,御同伴の部分が非常に短くなりました。),昭和53年以降,香淳皇后の御健康がすぐれず,以後は,昭和天皇お一方で諸行事にお出ましになっていたことによるのではないかと思われます。特に,香淳皇后が8月15日の戦没者追悼式に昭和天皇と御一緒に御臨席になったのは,昭和55年までで,昭和56年以降は,昭和天皇がお一方で御臨席になりましたが,昭和天皇お一人の映像が今でも時折放映乃至掲載されるので,諸行事には昭和天皇お一方でお出ましになっていたという印象が殊更に強いのかもしれません。しかし,御不例以前の香淳皇后は,実に度々に昭和天皇と御行動を共にされており,この誤解は正されなくてはなりません。香淳皇后のお怪我や加齢以後の御公務についての誤解が次第に重なり,中には御同伴のないことが昭和の伝統であったとする極論までありましたので,以上説明する次第です。
↑ここまで------------------------------------------


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by Lisa_cerise | 2013-05-27 18:28 | 皇室

日本人の心を大切に          ・・・Lisa


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